私的東アジア世界史概略

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1.凡アジア太平洋時代  

 

【当時の概況】 

 総じて言えば、過去には中国も朝鮮も日本もない時代があった。人々は厳密な意味での民族や国家といった大規模な集団を形成せず、せいぜい2000〜3000人以下の部族単位で生活し、部族ごとに本当に多彩な言語と文化が存在するとともに、大枠としてアジア太平洋地域で一体であるような時代があった。

 いわば、現在の55を数える中国少数民族さえ及びもつかないような雑多な集団(例えば人口300万のニューギニア島には現在なお1000余りの言語が存在しているという)が、東アジア全域に存在していた。彼らは時に、山内丸山遺跡にみられるように、かなり「長期間」にわたって一カ所に定住することもあったが、基本的には各種の要因、民族間の争闘、気候の変動等の原因で、移動を行うことがしばしばであった。

 

【北方と南方】

当時の東アジアをあえて区分するとしたら、当然、現在のような国境線や民族区分は意味を持たない。漢民族はじめ、朝鮮・日本などの東アジアの諸民族もまだ形成されていない。

ただ一定時期には、南方系民族集団と北方系民族集団との別が形成されていたようである。

南北の差異は、以下のような言語の別にかなり明白に現れている。

北方系言語:後のアルタイ語族(モンゴル語、満州語など)などにつながっていった言語。逆行構造を持つ。

南方系言語:後のマレー・ポリネシア語族(南島語族)、南アジア語族(カンボジア語など)、タイ諸語などにつながっていった言語。順行構造を持つ。

 

【混合言語】

南北混合言語漢語(いわゆる中国語)、チベット・ビルマ諸語。漢語は、名詞句は逆行構造であるのに動詞句は順行構造である。

系統不明言語:大和語(いわゆる日本語)・琉球語・アイヌ語、朝鮮語。これらの言語は構造的には、北方系言語に属する逆行構造であるが、実際には、南北の混合言語であるとする説が有力である。

これらの諸語は、南北両言語の混合により、比較的後世に形成されたものである。これらの言語の形成の問題は、これら諸民族の形成と密接に結びついており、これら諸民族の形成問題は本稿の重要テーマである。

 

2.長江黄河流域での農耕の発生

 

【河江文化】

 長江流域では、既に約15000年前の稲作の痕跡が発掘されており、世界でも最も古く農耕が誕生した地域の一つであることは間違いない。農耕は、やがて黄河流域にも伝わり、約8000年前には、長江・黄河のほぼ全域で農耕が行われるようになり、以降、黄河長江流域は東アジアの中で主導的な役割を果たすようになる

従来の黄河流域一元論の影響からか、ことさらに黄河流域と長江流域の違いを強調しようと言う向きがあるが、やはり両者は基本的に一体のものと考えるべきだろう。これについて、中国古代史家・伊藤道治氏は次のように述べる。

「(新石器時代の黄河長江流域の諸文化は)それぞれ独自の文化をもちながら、一方では東西にも南北にも文化を交流させて発展してきたのである。したがって、黄河のみの文化でもないし、長江のみの文化でもない、両者にまたがる文化、河江文化と総称しても良いと思う。」(『古代中国』講談社 2000年2月)

 

【粟作農耕と稲作農耕】

黄河流域と長江流域の新石器文化の違いとして、黄河流域の粟作(ヒエ・キビも含む)と長江流域の稲作との違いを挙げる向きがあるが、これらは基本的に同類型の農耕であり、西アジアの麦作文化に対し、「雑穀」(ミレット)文化として総称できる。ちなみに、イネが湿地の「雑穀」であるのに対し、アワ・ヒエ・キビなどは乾地の「雑穀」である。実際、黄河流域でも可耕地では稲作を行っており、両者に決定的な違いがあったわけではない。

おそらく長江流域で稲作を行っていた人々が華北の平原に進出した際、そこに群生していたアワ・ヒエ・キビの利用を行うようになったのだろう。ちなみに黄河流域で麦が栽培されるようになったのは、比較的新しく、今から4000年ほど前には西方から伝わっていたというが、農耕自体が西方から伝わったわけではない。

 

【北方系諸族と南方系諸族の分布】

 8000〜5000年前頃は、平均気温が現在より2〜3度高い高温期であったといい、商(殷)代においても、黄河流域にはゾウが生息していた。このように当時はかなり緯度の高い地域まで南方的状況が存在しており、それにつれて南方系諸族と北方系諸族との境界線も、かなり北にあったようである。

 新石器時代、更には夏、商(殷)など中国文明初期の段階においては、黄河流域の住民も長江流域の住民と同じく南方系諸族であった可能性が高い。黄河流域と長江流域とを、それぞれ「中国の南北」として区分できるようになったのは、黄河流域が北方化された周代から春秋にかけてのことである(後述)。

 

3.中国文明の発生

 

【中国文明とは?】

中国文明とは、ひとえに漢字文明である。中国の歴史、しいては中国文明圏たる東アジア世界の歴史とは、ひとえに漢字文明の影響交流圏の諸国家、諸民族の歴史に他ならない。「中国とは一つの国を装った文明」という指摘があるが、中国の歴史に一貫しているものは、決して一民族や一国家の歴史ではなく、大まかには「一つの国」と言っても差し支えない文明の歴史であり、その文明の発生の目安は、やはり漢字の発生である。

 

【漢字の発明】

現在「最古」の漢字とされるのは、商(殷)代の甲骨文であるが、これはかなり発達した文字であり、当然、それ以前により原初的な文字があったことが推測されている。二里崗など夏代の遺跡と推測されるところからも既に文字は出土しているが、なんと言っても絶対量が少なすぎるという。一般に、金属器と文字と都市の出現は文明発生の目安とされるが、長江中下流域からは、良渚文化遺跡(紀元前3300〜2200)のように黄河流域よりも古い都市遺跡が発見されており、その文明レベルの高さから、文字の発見は時間の問題という説もあり、今後の発掘が期待される。

 

【黄河長江文明】

いくら文化が発達していたとしても、未だ文字の出土していない長江流域の文化を文明とは認められないとする主張がある一方で、漢字の起源を長江流域に求める主張もあり、中には夏王朝自体を南方長江流域起源とする説もある。しかし、たとえ漢字や最初の文明が黄河・長江のどちらで先に成立したとしても、これは上記・伊藤道治氏が指摘するように、やはりこれは黄河長江流域の諸文化の交流の中で誕生したものであり、「河江文化」に続いて「河江文明」と名付けるべきかもしれない。

 更に言えば、文明の誕生は単に中央先進諸文化だけの問題ではなく、周辺の比較的後進的な諸文化をも含んだ交流の中で、はじめて文明は発展したのであり、これを先進民族だけの功績に帰するのはやはり間違いであろう。

 

【周辺への波及】

農耕の発生から文明の誕生にかけての諸々(富の蓄積、階級の発生等)は、諸文化の間に従来とは比べものにならないくらい激しい闘争を発生させた。闘争に敗北した文化は周辺に追いやられ、そこに先住していた文化を更に周辺に追いやるという諸文化・諸民族の「玉突き」を引き起こした。この「玉突き」は、大抵は比較的先進的な文化がより後進的な文化を押し出すという形で行われた。

ちなみに農耕の発展による人口増の結果か、約10000年前にはモンゴロイドは「それまで」オーストラロイド系住民の居住地であった東南アジア・インド方面にも拡大した。更には中国文明の形成発展期に当たる約5000〜3500年前には、マレー・ポリネシア系民族の東南アジア島嶼部への進出、更にはポリネシア人の太平洋諸島への進出が行われており、これらはこうした玉突きの結果であろう。

このような文化・民族の玉突きは、南方だけでなく北方にもあったことが推測されるし、こういった南北への玉突きは、当然日本列島にも及んでいたことが推測される。2001.08.28改訂)

 

4.漢民族の誕生